『源氏物語』を読んだ感想       

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 色褪せない普遍性

 

 現代社会において、人々は常に「新しさ」を求めている。

 

 ここ数十年の間にも世界はめまぐるしく変化し、私たちは昔では考えられないような生活をしている。例えるならば、電子機器の発達だ。今では世界中どこにいたとしても、電子機器を使って人とのコミュニケーションをとることができる。昔の人々には当然不可能なことだ。こうしてみると、今と昔では異なった世界であるかのような感覚にとらわれてしまう。 

 

 千年前に遡るとどうだろうか。千年前、日本は平安時代をむかえている。平安時代は七百九十四年に桓武天皇平安京に都を移してから鎌倉時代が成立するまでの約三百九十年間を指し、その際に日本独自の文化である国風文化が栄えた。また、これによって『源氏物語』など、多くの文学作品が誕生した。

 

 では、一般的に「面白い本」とはどのようなものか。人によって好みのジャンルは分かれるとは思うが、私は「共感性」が物語を面白くする一つの要素だと思う。

 

 『源氏物語』と聞いて、興味を持つ人は果たしてどれくらいいるのだろうか。「興味がある」と答える人は少ないだろう。実際、私は全く興味を持たなかった。その原因の一つとして、「平安時代の物語」という「古さ」によるものだと考えられる。先ほどにも申し上げた通り、私を含め人々は「新しさ」を求めている。平安時代の人の暮らしが今とはかなり異なっていることを理由に、「共感を得られないのではないか」というような否定的な偏見を持たせてしまうからだと考える。しかし、実際は違った。『源氏物語』は現代でも十分に楽しめるような、時代を感じさせない程の「共感」を持たせてくれる文学作品になっているのだ。

 

 『源氏物語』は主人公である光源氏によって話が進められる。光源氏天皇であった桐壺帝の息子で第二皇子として生まれた。彼は容姿が非常に優れ、多様な才能に恵まれている人物である。それはまさに「理想の男性像」といえるだろう。そして彼は多くの女性と出会い、尋常じゃない数の恋愛を経験する。こうしてみると、一本調子で抑揚のない物語だと感じるかもしれないが、実際は違う。彼の皇子という立場ゆえに発生する政治的な政略結婚や権力の激しい争いなどの興味深い展開がこの物語を面白いものにしている。それこそが長い間多くの人に読まれ続けている理由なのだろう。

 

 では、光源氏という男はどのような人生を歩んでいったのだろうか。また、どのような女性と出会ったのだろうか。

 

 この物語に登場する女性はどの人物も非常に個性豊かである。光源氏の母である桐壺更衣や、それによく似た藤壺中宮、教養が高く優雅な貴婦人であり、光源氏への愛と恨みから怨霊となって他の女性たちに対して祟りを起こす六条御息所など、数えたらきりがない。

   

 その中でも私が感慨深いと思った人物の一人は葵の上だ。葵の上は光源氏が一番初めに結婚した女性であり、一夫多妻制で第一の妻とされる「正妻」であった。光源氏との間に夕霧という子も授かったので、さぞかし幸せな人生に違いないだろう。しかし、そうではなかったのだ。彼女は他の主要な女性たちの陰に隠れ、物語を読んでいる私でさえも忘れてしまう程の存在になってしまっていた。立場的にみても目立つ位置に君臨するのにもかかわらず、なぜそんなにも光源氏からの寵愛を受けなかったのだろうか。そこにはその時代ならではの理由が深く関係しているのではないかと思う。

 

 その原因の一つは、「政略結婚」によるものだと思う。葵の上は時の権力者である左大臣の娘という、折り紙つきのお嬢様であった。左大臣からしてみると光源氏は帝の子孫であり、自らの出世のためにも、ぜひ娘と結婚させておきたい相手であった。このような結婚の形は現代ではまずあり得ないことだが、果たしてお互いを愛することはできたのだろうか。それは不可能に近いだろう。

 

 結局、二人の結婚生活は上手くいかなかったようだ。いくつか推測できる原因の一つとして考えられるのは、二人の年の違いだろう。結婚時、光源氏は十二歳で葵の上は十六歳であった。この四歳の年齢差はその頃の二人にとってとても大きなものだったに違いない。今でいうところの、小学校六年生の男児と高校一年生の女子と思えば、簡単に二人の溝を想像できるだろう。また、当時の結婚とは男女が同居しているのではなく、男性が女性の家に通うというスタイルであった。故に、光源氏は「義務感」のように感じていたのではないか。さらに、当然ながら光源氏が家に尋ねる際は、親である左大臣は歓迎し、もてなすのだ。これは光源氏にとって性に合わないことのように思える。彼は、問題を抱えた状況の中で女性を手に入れることのように、自分が追いかける恋愛を好むタイプだということが、後の女性関係の中で明確になっている。これら含めた多くの要素が二人の結婚生活の大きな障害になっているのではないかと考えた。

 

 これらの状況は、形は異なるが現代を生きる私達にも同じことが言えるだろう。自分の意志ではなく他の人に強制された物事に対する執着は軽率なものであろう。この点に関しても光源氏という男の人間性は現代の一般的な常識と通ずるところがあるのだ。

 

 しかし、二人の関係は急激な変化を迎える。

 

 光源氏は十八歳、葵の上は二十二歳となった頃、光源氏は夕顔や空蟬、六条御息所など、多くの女性と関わっていた。一方で葵の上とはまだ距離があったのだ。だが、そんな中で葵の上は妊娠するのであった。これには周囲の人々は喜んだが、妊娠によって光源氏と会えなくなった六条御息所は葵の上を憎み、その生霊は葵の上を苦しめることとなった。そして無事出産を終えた葵の上だったが、物の怪と出産によってやつれ果ててしまった。しかし、光源氏は葵の上を見て儚く美しいものだと思い、この時初めて彼女を愛したのだ。なんとも不思議な展開だ。これまで少しの愛も感じなかったのにも関わらず、力尽きて痛々しい姿に愛おしく感じてしまうのだ。これにはどうも理解し難く感じるが、決して全く理解できないことではない。ここにこそ人間の本質的な部分が隠されているのではないかと思う。

 

 光源氏にとって葵の上は当たり前の存在になっていたのかもしれない。十二歳の頃からの間柄だったので、それはしょうがないことだ。だからこそ当たり前の存在が消えてしまいそうなときは、そのときを深く心に留めておきたいと思うのだろう。失わないと気付かないという、なんとも愚かな人間の習性ではあるが、それによってひと時の間愛を得た葵の上は幸せだったのではないかと思う。

 

 今を生きる人々にとっても、このような光源氏の心境の変化に共感できるのはないだろうか。少なくとも私はとても共感した。もしこの世の中が不変的で「死」というものが存在しなかったとしたら、過ぎていく日々を愛することはできないと思う。しかし、この世の中は常に変化し、すべてのものに終わりがあるとしたら、限りある時間を大切にして日々を愛おしく感じることができるのだ。この物語は、今の時代でも共感できる部分が多く描かれており、私たちは、現代にも通ずる普遍的な人間の本質に面白さを感じるのだ。

 

 また、この物語の筆者である紫式部は、結婚はしていたものの正妻ではなく寂しい思いをしたと考えられる。彼女は正妻に嫉妬していたのだ。だから葵の上は正妻なのにもかかわらず、不幸な人生を送ったのではないか。これは、紫式部がこの作品を通して正妻に対しての復讐をしたと考えてもおかしくはないだろう。

 

 さて、生涯を出家と恋愛に精を尽くした光源氏だったが、最終的に彼は出家したのか。また、彼の最期はどのようなものだったのか。しかし、驚くべきことにその様子は作中に描かれていない。光源氏の物語は「幻」という巻で終わりを迎える。それは彼が五十二歳の頃だった。その後、彼の子孫たちの物語である「匂宮」という巻が続くのだ。そして非常に興味深いことに、その二巻の間に「雲隠」という本文がない白紙の巻がある。これによって、読者の想像力が掻き立てられるとともに、次の子孫たちの話に繋げやすくしているのだ。よくありがちなハッピーエンドを迎えるのではなく、あえて読者に委ねるところに紫式部のセンスを感じる。このような工夫が長い間多くの人に読まれ続けている理由の一つなのだろう。

 

 こうしてみると、この作品はただの恋愛物語ではない。紫式部は人間の本質的な部分を追求し、それを「光源氏」という人物を利用して上手く表現している。人間の根本的な考え方は何年たっても変わりにくい。だから人々は光源氏の行動一つ一つに共感し、何年たっても色褪せることなく今の時代でも読まれ続けているのだろう。